阪神・淡路大震災丸10年で思うこと

平成17年1月17日

2005年1月17日で11年目を迎えた。
今思うこと、前兆現象についてなどを書いてみようと思う。

 

10年・・・もうそんなに経ったのか〜というのが正直な気持ち。幼稚園年長組だった次女は高校1年生になった。本人の記憶はところどころだそうだ。

大阪へ車で避難するとき、つぶれた家で道路がふさがれ、屋根を踏みながら走り、マンションがこちらへ向いて傾く、たった今燃え上がった家、そこから車に向かって火の粉が飛んでくる中を一気に走り抜けられない、そんな恐怖もあまり覚えていないらしい。

長女は当時小学4年生で、学校へ行く前の給水車から水をもらいに行く仕事など日課になっていたのをよく覚えているようだ。震災の1週間ほど前にお誕生日会をしたばかりだった。
震災の犠牲者は6,433人と言われているが、後のいろいろな作業のため不眠不休で働き亡くなった方もたくさんいる。長女の同じクラスのお父さんもそうだった。 クラス委員をしていた私はお葬式に参列したが、下にまだ2人兄弟がいた。母親は何年か前にすでに亡くなっていたらしく子供3人だけが残ったのだった。引き取り手がなかったようで、娘は私に「○○ちゃん、『こどもの家』(施設)に行くんだって」と悲しそうに言っていたのを覚えている。

ところで、当時我が家にはサリーというセキセイインコが1羽いた。サリーは1998.12.5、次女の誕生日の前日、HPを開設する数日前に10歳という長い命の幕を下ろしている。

サリーは震災の数日前(はっきり覚えていない)にかなりひどく食べたものを吐いた。しかも長時間にわたって、胃袋の中が空っぽになるんじゃないかと思うぐらい。
しかし、ひとしきり吐いた後は急にケロッとしてまた餌を食べ、元気になったのだった。
どこか調子悪いのか、何か喉に引っかかったのか心配したが、その後もすっかり元気になってしまったので忘れていた。

その同じ日か翌日ごろ、家の別々の部屋のテレビが2台、チャンネルを変えても変えても10ch(たしか10chだと思う)に戻るという不可思議な現象が数分間続いた。そのテレビは2台とも同じメーカーだった(SH○RP)
私たちは怪奇現象かと思い恐れおののいていた(^^;;;

震災の前日は、震災でつぶれてしまった生田神社に行った。
あとからできあがった写真を見ると、いつもわんさかいる鳩たちがどの写真にも1羽も写っていなかった。

『あとから考えてみると・・・』というのがいくつもあったのだった。それを私たちは気がつかなかった。
地震がないといわれてきた地域なので、「何か起きる」と思った人はだれもいないんじゃないかと思う。

この10年の間、家も2度引っ越し、環境もすっかり変わってしまった。
怖い思いをした土地だけど、よけいに愛着を感じる。いつか帰りたいと思う。

今、我が家には7羽のインコたちがいる。
私は・・・阪神淡路大震災、新潟中越地震、スマトラ島沖地震級の地震や津波が起きたら、この子たちを助ける自信は正直いって「ない」のだ。
いつも何か起きたらどうやって助ける・・・こういう話はあちらこちらの掲示板などで時々出る話題で、そのたびに対策を考えてはいるのだが、どれもこれもあのパニック状態の中でできるとは思えない。
実際、当時いたサリーを思い出したのは地震後どれぐらい後だったか。
ふと「サリーちゃんは!?」の子供の声に真っ暗闇でカゴを手探りで探したのだった。
鳥もパニックになって大騒ぎするのかと思いきや、フリーズしているようで声ひとつ出さなかった。

夜中や明け方の真っ暗な中で、地震で家の中がガタガタの状態で、どうやって助け出すことができますか。
逃がしてやるのでさえ難しいような気がする。 これは本当にこれからの課題だと思う。

家族同然・・・と言いながら助けてやる自信がないという矛盾した発言で、お叱りを受けるかもしれないけど、実際その場で自分がどういう行動をとれるかわからない。
本当にあのときはそれどころではなかったというのが本音だから。揺れがおさまっても言葉がしゃべれない時間が数分続いたぐらいのパニックだったから。

助け出せたとする。7羽、8羽もいる鳥たちとともにどこで避難ができるのか?避難所へ連れて行くのは無理?知り合いのお宅で避難させてもらうにもそんなにたくさんの鳥たちまでお世話になるには気が引ける。車の中で過ごす?鳥たちをずっと狭いケースに入れたまま放鳥もできない?人間も鳥もストレスでまいってしまうのだろう。

結局、ここで解決策は見つかりません。ごめんなさい。
ただ私が思っていることを書いただけですのでm( __ __ )m

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